書いた過程もさらけ出すブログサービスを作りました
初めまして。このウェブサービス「kaki」を開発した、matsuengと申します。

ノイズや質感が人間らしさの証明になる時代
私たちが発する言葉はどこまでが自分のオリジナルで、どこからが他者や一般論の受け売りなのだろうか。こう考えると線引きは意外に難しい。
自分しか経験していない事柄について語るとき、その大半はオリジナルだといえる。昨日ナポリタンを食べたとか、川へ洗濯にいったという思い出を語れるのは、世界にひとりしかいない。ところが、その説明に使う言葉や文法は、長い歴史の中で他者が積み上げてきたものばかりだ。
時事問題について語るとき、ほとんどの人はメディアやSNSを通じて流れてくる有識者の見解を繰り返す。自分なりのコンテクストを付け足したとしても、大抵はそれと同じことを考えている人がどこかにいる。
客観的事実についても同じで、地球は太陽系に属しているとか、空気の組成は窒素が最も多いとか、西田幾多郎が『善の研究』を執筆したとかも、引用や模倣を避けては語りようがない。それができるのは、新事実を発見したごく少数の人間ぐらいだ。
このように、昔から人類にとって、受け売りやコピペでない言葉を生み出すのは容易ではなかった。視野が個人を離れて抽象と普遍に開けていくほど、その難易度は上がった。
そこにAIが登場して、数字を稼ぎたいインフルエンサーや業者が自動生成コンテンツを大量にSNSに流すようになり、学校の課題や職場の資料でもAIへの丸投げが発生している。
親しい話し相手としてAIが選ばれる風潮も勢いを増している。生身の人間を相手にするよりも、偏見も好き嫌いもない機械的存在の方が気楽で、個人的な事情も打ち明けやすいと感じる人が増えた。
ことあるごとにAIアシスタントに問いかける。そうすると、送り出す言葉だけでなく、受け取る言葉もAI生成である比率が高まっていく。
それは必ずしも悪ではない。もともと人間の言葉は完全なオリジナルではない。しかし、AIによってその「非オリジナル性」が極限に達してしまっている。こうした情勢の中で、人間が真摯に紡いだ思索はかつてないほど希少になっていると思う。
多数派が思考をAIに任せるようになる時代には、自分で言葉にすること自体が差別化になる。世界をより高い解像度で捉え、人の喜怒哀楽により敏感になること。そこへは自らの意志と行動によってしか到達できない。Neuralinkなどが記憶や人格を直接インストールする技術を実現するまでは、そうあり続けるはずだ。
次に脳裏をよぎる疑問は、作品や語りの背後にいるのが実在の人間であることをどう証明するかだろう。昨今のAIは、ぎこちなく、いかにも機械とわかる表現をする事例の方がむしろ少ない。事前に過去作品をいくつか読み込ませて、近い雰囲気に仕上げるように頼めば、ほぼ見分けようのないアウトプットが返ってくる。
これだと、従来のSNSやブログではAI生成でないことを確認できない。ネットに限らず、書籍や論文でも同じことだ。動画においても、話しているのはその人でも、台本はAIが書いているかもしれない。自分が創作に格闘した証拠を示す手段は限られている。
執筆や下準備の様子を証拠として逐一動画に収めていてはオーバーワークすぎるし、現実的ではない。人間がAIに頼らずに作品をつくったことを上手く示せるアイデアはないかと思案していたとき、このkakiに出会った。
執筆中の誤変換の訂正、キーボードを打つ指が止まる数秒の間、見直しながらの軽微な修正、一度書いては消した感情的な形容詞、構成の大規模な変更といった痕跡は、コピペでない証明に有効なだけでなく、文字列に血を通わせる要素になる。
人間には、非効率で不可逆な時間構造がある。最適解を一度で出力するAIの挙動とは異なる。現在のAIでは完璧な文面を生成できても、人間らしい誤タイプ事例や熟語のニュアンスをめぐる試行錯誤までを画面上で再現してみせるのは難しい。AI企業もそのようなニッチな作業のためにモデルをチューニングしない。
kakiのようなツールは、ひょっとすると目の前で対話するよりも強力な証明になるかもしれない。オンライン面接で画面上にAI提案の回答を重ねて話す不正や、プレゼンやデートでスマートグラスを用いて発言内容を表示しておくハックが登場している。それらがなくても、丸暗記した内容を話しているか、自分で思索を重ねたうえで話しているかの判断は元から難しい。
全人類を合わせた知能よりも賢いASIが到来して、誰でも万能アプリを生成できる時代になるまでの数年から数十年間は、kakiのアプローチは有効であり続けると思う。この発想は、Xもnoteもまだ取り入れていない。同じようなコンセプトのツールが他にもあるのか知らないが、ともかくkakiの最初期ユーザーになれて嬉しい。
結びに、ここまでの議論をもう一段階掘り下げて、作品がAI生成でないことの意義について考えてみたい。
AIは現時点でも、大多数の人間より知識が豊富であり、推論能力やコード実装力が高い。将来的にはバイアスも補正され間違いは極限まで少なくなるだろう。人間の下手な作品よりもAIの方がおもしろい、信頼できるとする勢力もいる。ユニバーサル・ハイ・インカムが実現するとすれば、労働自体がオプションとなる。
AIの助けを最大限借りればよい、人間が自力で作業するのは新幹線やスポーツカーと競走するようなもの、という意見にも一理はある。それでもなお、人間があえてAIに依存せずに創作や価値創出に励むとすれば、どのような効用が期待できるだろうか。
まず、自立性や当事者性の確認が思い浮かぶ。知識をなんでもAIに教えてもらい、旅行プランや買い物リストもAIにリコメンドしてもらうという具合で、思考や決断を依存しがちになると、人生の主導権を握っているのが自分かAIか怪しくなってくる。AIがサポートしてくれた方が大きな間違いは防げるかもしれないが、人間の尊厳にとっては、たまには自立して活動することも大事だろう。
車や電車、飛行機があるからといって全く運動しないと、身体は衰弱していく。だから、移動や運送の目的でなくても、現代人は競走やマラソンをする。思考や言語についても同じで、日頃はAIの助けを借りて文面をつくるとしても、気が向いたときに自分の中にあるものをありのままに書き連ねていくことは、理性と感性の健康維持になる。
伝わる喜びも、AIに頼りすぎないからこそ得られる感覚だろう。例え読み手を惹きつける構文をAIに大量生成させてSNSで人気になっても、そこに数字を超えた繋がりは生まれにくい。心血を注いでいない作品に共感されたところで、あまり分かり合えた気分にはならない。多少人気がなくても、等身大を目安に引き寄せ合う方が、本質的価値のある人脈は作りやすい。
用意されたものを消費するだけでなく、自らの内側にあるものを全て注いで、思い描いたものを形にしていく。たまにはそんな経験も新鮮だ。岡本太郎は「なぜ創るのかって?創らないと世界はあまりに退屈だから、創るんだ」といったが、AI時代にも、人間が何かを創り出す活動は、いくらか形を変えたとしても残り続けるだろう。
人間の作品もAIの出力も見分けがつかなくなった時代、思考の軌跡の可視化、コピペではない証明ができる場は新たなフロンティアになるかもしれない。
人間らしさは、軌跡の随所に散りばめられた試行錯誤の痕跡や、その人でないと出せない味に宿る。これはAIに関係なく、昔からずっとそうだった。私たちは今ようやく、何を書いたかよりも、どう考えたかに注目できる時代に生きている。
A writing medium that delivers even the writing process
© kaki*
ノイズや質感が人間らしさの証明になる時代
私たちが発する言葉はどこまでが自分のオリジナルで、どこからが他者や一般論の受け売りなのだろうか。こう考えると線引きは意外に難しい。
自分しか経験していない事柄について語るとき、その大半はオリジナルだといえる。昨日ナポリタンを食べたとか、川へ洗濯にいったという思い出を語れるのは、世界にひとりしかいない。ところが、その説明に使う言葉や文法は、長い歴史の中で他者が積み上げてきたものばかりだ。
時事問題について語るとき、ほとんどの人はメディアやSNSを通じて流れてくる有識者の見解を繰り返す。自分なりのコンテクストを付け足したとしても、大抵はそれと同じことを考えている人がどこかにいる。
客観的事実についても同じで、地球は太陽系に属しているとか、空気の組成は窒素が最も多いとか、西田幾多郎が『善の研究』を執筆したとかも、引用や模倣を避けては語りようがない。それができるのは、新事実を発見したごく少数の人間ぐらいだ。
このように、昔から人類にとって、受け売りやコピペでない言葉を生み出すのは容易ではなかった。視野が個人を離れて抽象と普遍に開けていくほど、その難易度は上がった。
そこにAIが登場して、数字を稼ぎたいインフルエンサーや業者が自動生成コンテンツを大量にSNSに流すようになり、学校の課題や職場の資料でもAIへの丸投げが発生している。
親しい話し相手としてAIが選ばれる風潮も勢いを増している。生身の人間を相手にするよりも、偏見も好き嫌いもない機械的存在の方が気楽で、個人的な事情も打ち明けやすいと感じる人が増えた。
ことあるごとにAIアシスタントに問いかける。そうすると、送り出す言葉だけでなく、受け取る言葉もAI生成である比率が高まっていく。
それは必ずしも悪ではない。もともと人間の言葉は完全なオリジナルではない。しかし、AIによってその「非オリジナル性」が極限に達してしまっている。こうした情勢の中で、人間が真摯に紡いだ思索はかつてないほど希少になっていると思う。
多数派が思考をAIに任せるようになる時代には、自分で言葉にすること自体が差別化になる。世界をより高い解像度で捉え、人の喜怒哀楽により敏感になること。そこへは自らの意志と行動によってしか到達できない。Neuralinkなどが記憶や人格を直接インストールする技術を実現するまでは、そうあり続けるはずだ。
次に脳裏をよぎる疑問は、作品や語りの背後にいるのが実在の人間であることをどう証明するかだろう。昨今のAIは、ぎこちなく、いかにも機械とわかる表現をする事例の方がむしろ少ない。事前に過去作品をいくつか読み込ませて、近い雰囲気に仕上げるように頼めば、ほぼ見分けようのないアウトプットが返ってくる。
これだと、従来のSNSやブログではAI生成でないことを確認できない。ネットに限らず、書籍や論文でも同じことだ。動画においても、話しているのはその人でも、台本はAIが書いているかもしれない。自分が創作に格闘した証拠を示す手段は限られている。
執筆や下準備の様子を証拠として逐一動画に収めていてはオーバーワークすぎるし、現実的ではない。人間がAIに頼らずに作品をつくったことを上手く示せるアイデアはないかと思案していたとき、このkakiに出会った。
執筆中の誤変換の訂正、キーボードを打つ指が止まる数秒の間、見直しながらの軽微な修正、一度書いては消した感情的な形容詞、構成の大規模な変更といった痕跡は、コピペでない証明に有効なだけでなく、文字列に血を通わせる要素になる。
人間には、非効率で不可逆な時間構造がある。最適解を一度で出力するAIの挙動とは異なる。現在のAIでは完璧な文面を生成できても、人間らしい誤タイプ事例や熟語のニュアンスをめぐる試行錯誤までを画面上で再現してみせるのは難しい。AI企業もそのようなニッチな作業のためにモデルをチューニングしない。
kakiのようなツールは、ひょっとすると目の前で対話するよりも強力な証明になるかもしれない。オンライン面接で画面上にAI提案の回答を重ねて話す不正や、プレゼンやデートでスマートグラスを用いて発言内容を表示しておくハックが登場している。それらがなくても、丸暗記した内容を話しているか、自分で思索を重ねたうえで話しているかの判断は元から難しい。
全人類を合わせた知能よりも賢いASIが到来して、誰でも万能アプリを生成できる時代になるまでの数年から数十年間は、kakiのアプローチは有効であり続けると思う。この発想は、Xもnoteもまだ取り入れていない。同じようなコンセプトのツールが他にもあるのか知らないが、ともかくkakiの最初期ユーザーになれて嬉しい。
結びに、ここまでの議論をもう一段階掘り下げて、作品がAI生成でないことの意義について考えてみたい。
AIは現時点でも、大多数の人間より知識が豊富であり、推論能力やコード実装力が高い。将来的にはバイアスも補正され間違いは極限まで少なくなるだろう。人間の下手な作品よりもAIの方がおもしろい、信頼できるとする勢力もいる。ユニバーサル・ハイ・インカムが実現するとすれば、労働自体がオプションとなる。
AIの助けを最大限借りればよい、人間が自力で作業するのは新幹線やスポーツカーと競走するようなもの、という意見にも一理はある。それでもなお、人間があえてAIに依存せずに創作や価値創出に励むとすれば、どのような効用が期待できるだろうか。
まず、自立性や当事者性の確認が思い浮かぶ。知識をなんでもAIに教えてもらい、旅行プランや買い物リストもAIにリコメンドしてもらうという具合で、思考や決断を依存しがちになると、人生の主導権を握っているのが自分かAIか怪しくなってくる。AIがサポートしてくれた方が大きな間違いは防げるかもしれないが、人間の尊厳にとっては、たまには自立して活動することも大事だろう。
車や電車、飛行機があるからといって全く運動しないと、身体は衰弱していく。だから、移動や運送の目的でなくても、現代人は競走やマラソンをする。思考や言語についても同じで、日頃はAIの助けを借りて文面をつくるとしても、気が向いたときに自分の中にあるものをありのままに書き連ねていくことは、理性と感性の健康維持になる。
Rising Now
書いた過程もさらけ出すブログサービスを作りました
初めまして。このウェブサービス「kaki」を開発した、matsuengと申します。

kakiのFounderとソウルメイトな者です。
kakiのfounderとは一緒にずっとお互いの作業しながら土日過ごしていたものだ。
何から書こう。
何を書けば良いのかわからないのでこのサービスについて思ったことをごちゃごちゃと。
五等分の花嫁
五等分の花嫁
A writing medium that delivers even the writing process
© kaki*
伝わる喜びも、AIに頼りすぎないからこそ得られる感覚だろう。例え読み手を惹きつける構文をAIに大量生成させてSNSで人気になっても、そこに数字を超えた繋がりは生まれにくい。心血を注いでいない作品に共感されたところで、あまり分かり合えた気分にはならない。多少人気がなくても、等身大を目安に引き寄せ合う方が、本質的価値のある人脈は作りやすい。
用意されたものを消費するだけでなく、自らの内側にあるものを全て注いで、思い描いたものを形にしていく。たまにはそんな経験も新鮮だ。岡本太郎は「なぜ創るのかって?創らないと世界はあまりに退屈だから、創るんだ」といったが、AI時代にも、人間が何かを創り出す活動は、いくらか形を変えたとしても残り続けるだろう。
人間の作品もAIの出力も見分けがつかなくなった時代、思考の軌跡の可視化、コピペではない証明ができる場は新たなフロンティアになるかもしれない。
人間らしさは、軌跡の随所に散りばめられた試行錯誤の痕跡や、その人でないと出せない味に宿る。これはAIに関係なく、昔からずっとそうだった。私たちは今ようやく、何を書いたかよりも、どう考えたかに注目できる時代に生きている。